LOGIN湊は2日後に退院した。
熱が下がるなり家中を走り回ったが、喉が痛くて食事はあまり進まなかった。紗月は白粥に細かく刻んだ鶏肉を入れ、薬を飲むたびにカレンダーへ恐竜のシールを貼った。
蓮司は1日に1度だけ、メッセージを送った。
連絡する時刻も午前10時と決めた。紗月が夜通し看病した後に眠れる時間を避け、返事がなくても催促しない。医療スタッフに直接連絡したり、病院代の細かな明細を求めたりしないことも、合意書に加えた。
【湊の具合はいかがですか?】
紗月が『熱なし。食事は少し』と返せば、それ以上は聞かなかった。病院代を勝手に送ることも、医師を替えろと言うこともなかった。
そのわずかな距離が、不思議と目に留まった。
退院の翌日、湊名義の信託口座を開く書類が届いた。蓮司が過去の養育費を一括で振り込むのではなく、黒川と会計士が確認した額を3回に分けて入金するというものだった。紗月が実際の医療費や教育費を整理する時間を確保するためだった。
最初の入金通知を見ても、紗月の心は軽くならなか
蒼葉紡績文化館は、写真で見るより状態が悪かった。赤れんがの外壁は美しかったが、床はあちこちひび割れ、天井の配管には結露の跡が残っていた。仮設電源の容量では、照明とケータリングの機器を同時には動かせなかった。紗月はヘルメットをかぶり、現場を歩いた。「こちらは招待客の動線に使えません。床の段差が4センチを超えています」建築家の圭介が図面を広げた。「仮設のデッキを敷けば対応できます。既存の床には手を加えない条件で」「手すりも必要です。お酒を出す催しなので、夜間の利用を前提に見てください」施設チームから、消防関係の検査がまだ終わっていないため、天井から装飾をつるせないと言われた。既存鉄骨の許容荷重に関する資料も、一部欠けていた。紗月は花を頭上に飾る予定だった初期図面に、赤線を引いた。「天井には、何もつるしません。床置きの自立式に変えて、非常口の前は2メートル空けてください」璃子の母は空間が寂しく見えるのではと案じたが、紗月は安全確認が済むまで見栄えの議論をしなかった。圭介が、古い織機のフレームを装飾に使おうと提案した。構造計算と文化館の承認を前提に、検討項目へ加えた。「古いものを残すことと、無理に使うことは違います」紗月の言葉に、圭介もすぐ同意した。場所にまつわる思いが安全に優先しないよう、最初の議事録には禁止事項から記した。璃子が、ほこりの積もった窓を見上げた。「それでも、ここで挙げたいんです。父が初めて工場を買い取ったとき、自分で手を入れた建物だから」紗月は、その言葉を書き留めた。古い空間をきれいに見せるより、なぜここでなければならないのか、招待客にも伝わることが大切だった。現場点検が終わるころ、久我悠真が到着した。ホテル・オルヴィエの施設チームと、ケータリングの責任者も一緒だった。「頼まれていた仮設電源の見積もり、持ってきたよ」厚いファイルを差し出した。「発電車2台、移動式の厨房、冷蔵コンテナ。ホテルの物流チームで、設置まで請け負える」
藤堂怜奈は、藤堂グループ広報室の会議室で紗月と会った。テーブルには、記事が出るまでの経路を分析した資料が置かれていた。5年前、5億円の記事を最初に書いた記者と、最近の記事を掲載した媒体は違う。だが、資料を渡した広報代理店は同じだった。モメンタムPR。「うちも、契約したことがある会社です」怜奈が言った。「今回の破談対応を任せるように、桐生が勧めてきたんです。不審に思って過去の案件を調べたら、5年前の桐生の後継体制に関する広報も担当していました」紗月は代表者名を確認した。「現在の契約者は、どこですか?」「桐生戦略企画室。実務の承認者は、桐生彰人専務側です」「文化財団の入館証で入った撮影補助員も、この会社の所属でした」「なら、偶然ではなさそうですね」怜奈は、藤堂のセキュリティチームが復元したアクセス履歴を画面に映した。最初の5億円の資料が記者へ渡った日、モメンタムPRの担当者は桐生別館の会議室の入館カードを使っていた。最近の記事のファイルも、同じ担当者のアカウントで作られている。5年の間隔があっても、作成者と承認経路はつながっていた。「これを提出すれば、藤堂も調査を受ける可能性があります」「わかっています。最近の契約金の一部は、うちの広報室が払っていますから」「取締役会に止められませんか?」「止めようとしてきました。だから昨夜、先に監査委員会へ申告しました」怜奈は議事録の写しを差し出した。自分に不利になりうる契約も隠さない。その代わり、誰が桐生からの推薦を承認したのかまで調べるよう求めた文書だった。「自分の名前を守るって、何が何でも潔白だと言い張ることではないんですね。自分が署名した契約に問題があれば、それも出すことなんだと」紗月はその言葉に、蓮司の謝罪とは違う響きを聞いた。怜奈は許しを求めていない。自分が選んだ立場で生じた責任を、自分で片づけていた。怜奈がファイルを渡した。最近の記事に添付された残高証明書の画像は、作成日が5年前だった。使用ソフトの登
高梨美緒の結婚式は、結局、取りやめになった。ルミエールを別の会社に替えるだけで済むかと思われたが、美緒は婚約者の家族との対立に耐えられず、結婚そのものを延期した。解約から1週間後、彼女は紗月を訪ねてきた。「社長のせいじゃありません」カフェに座った美緒は、指から指輪を抜いてテーブルに置いた。「むしろ、代表が聞いてくれたから気づいたんです。式ひとつ自分で決められないのに、結婚したら、もっとひどくなるんだろうなって」「後悔しませんか?」「するかもしれません。でも、人に決められたとおりにして後悔するよりは、いい気がします」紗月はキャンセルの精算書を渡した。すでに支出した費用を差し引いた、手付金の返還額が記されていた。書類を見ながら、美緒が尋ねた。「記事に出ている5億円って、嘘ですよね?」「はい」「私は、信じます」「ありがとうございます」「それを直接聞きたくて来たのもあるんです」美緒は書類に署名し、立ち上がった。「今度、本当に結婚したくなったら、また連絡します。そのときは、自分でお金を出して、自分で選びます」「お待ちしています」美緒は指輪を置いて店を出かけ、入り口で引き返してきた。人の決めたことに流されてはめていた指輪でも、捨てる必要はないと思ったらしい。「これも、私が買ったんです。持って帰ります」「ええ、どうぞ」紗月はその小さな選択を引き止めも、大げさに意味づけもしなかった。美緒は指輪をかばんの奥にしまい、1人でカフェを出た。顧客を失ったのに、心の片隅は軽かった。事務所に戻ると、朝比奈璃子専務と婚約者の瀬名圭介が待っていた。璃子は朝比奈グループの流通部門を率い、圭介は古い建物を再生する建築家だった。2人は豪華なホテルではなく、横浜郊外の蒼葉紡績文化館で式を挙げたがっていた。「本番まで、5週間と少しです」紗月が言った。「施設の使用許可は下りました
神谷直人が復元した通話記録には、同じ番号が23回並んでいた。離婚書類に署名した日の午後2時11分から、午後10時47分まで。一ノ瀬紗月。蓮司は当時の会議日程と、通話記録を並べた。記録では、電話がつながらなかった理由も分かれていた。最初の2回は着信を拒否。次の6回は秘書室への転送。その後は端末側のブロック。蓮司が自分で押したボタン、秘書室が従った指示、雅子側が追加した着信遮断が、時系列で残っていた。「俺が会議前に、電源を切るよう言ったのは、正確には何時だ?」「午後1時50分です」「交渉が終わったのは?」「午後6時20分です。ただ、会長はその後、午後11時まで別席で会食されています」蓮司は会議の後も、携帯電話を返してもらわなかった。重要な交渉を終えた安堵から酒を飲み、家に帰ることさえ考えなかった。誰かが遮断したというだけでは、その空白の9時間を説明できなかった。その日は、グランド・キリュウ・ホテルの株式取得に関する最終交渉があった。藤堂側と初めての共同事業について話し合い、彰人も交渉に同席していた。午後1時50分。蓮司は神谷室長に携帯電話を渡して言った。『どんな連絡もつなぐな』当時、神谷室長は秘書室でいちばん下の立場だった。紗月からの最初の2回の電話の後、雅子の秘書室から『家庭の問題は理事長室が処理する』というメッセージが入った記録が残っていた。それ以降、電話は自動で遮断された。「留守番電話は残っているか?」蓮司が尋ねると、神谷室長はファイルを1つ開いた。「通信会社のサーバーにはありませんが、当時の秘書室のバックアップシステムに、一部残っていました。会長専用回線の録音記録は、保安上、10年間保存する運用でした」蓮司は再生ボタンを押せなかった。「お聞きになりますか?」「先に原本を、外部弁護士へ送ってくれ」「はい」「一ノ瀬代表にも、どうしたいか聞いてくれ。本人の声が入っているファイルだから」神谷室長が退室す
ルミエールの受付に、見知らぬ中年女性が訪ねてきたのは、昼ごろだった。紗月に直接会いたいと言い、古い茶封筒を胸に抱えていた。真帆が身分証を確認して、名前がわかった。坂井文乃。5年前、桐生雅子の家で働いていた家政婦だった。紗月は会議室のドアを閉め、向かいに座った。「私を覚えていらっしゃいますか?」「はい。最後の日に、荷物をまとめてくださいましたね」文乃は膝の上で手をこすった。「あのとき、ちゃんとお助けできなくて、申し訳ありませんでした」「今日は、どうされたんですか?」文乃が封筒をテーブルに置いた。表には、紗月の字で桐生蓮司と書かれていた。切手も貼っていない、社内受け渡し用の封筒だった。「どうして、これを持っているんですか?」「一ノ瀬代表がお出になった翌日、警備室の机の下に落ちていたんです」紗月は記憶をたどった。離婚書類に署名した日、病院でもらったエコー写真と診断書を封筒に入れ、蓮司に届けてほしいと警備室の職員に頼んだ。「会長には、届かなかったんですね」「秘書室に回す前に、理事長の秘書が持っていきました。でも、その日の夕方、また警備室へ戻ってきて。処分するようにというメモがついていました」「どうして、処分しなかったんですか?」「写真が見えたんです」文乃はうつむいた。「封筒が少し破れていて、エコー写真の端が出ていました。いくら何でも、赤ちゃんの写真は捨ててはいけないと思って……私が持って帰りました」「5年間も?」「最初は、お返しする方法がなくて。番号も変わっていましたし、理事長から探すなと言われていました。後になっては、もう遅すぎると思うと怖くなって」紗月は封筒に触れられなかった。紙は黄ばみ、角がすり減っていた。中のエコー写真に写る湊は、指1本より小さかった。「今、持ってきたのは、どうしてですか?」「ニュースで代表を
桐生雅子は、約束の時刻から30分遅れて現れた。蓮司は母の家の書斎で待っていた。テーブルには、不正に作られた口座の資料、残高証明書、当時の離婚合意書の草案が並んでいた。書類を見た途端、雅子の顔がこわばった。「どうして、またこれを持ち出したの?」「母さんが、どこまで知っていたのか確かめるためです」「もう終わったことよ」「紗月にとっては、終わっていません」蓮司の持参した録音同意書を見て、雅子は署名を拒んだ。蓮司は無理に録音機をつけなかった。「同意されないなら、今日の話はここで終わりにします。その代わり、外部監査と捜査機関からの書面での照会に、お答えいただくことになります」息子が立ち去ろうとして初めて、雅子はペンを取った。「家族で話すのに、こんなものまで必要なの?」「家族だからと記録を残さなかった結果が、今の状況です」署名を待って、蓮司は開始時刻と同席者を口頭で確認した。いつでも面談を打ち切れると伝えたうえで、最初の質問に移った。蓮司は録音機を作動させた。雅子が鋭く尋ねた。「私を取り調べるつもり?」「はい」隠そうともしない答えに、雅子は椅子に座った。「何が聞きたいの」「一ノ瀬紗月名義の口座は、誰が作ったんですか?」「私は知らないわ」「残高証明書を見せたのは、母さんです」「桐生彰人が持ってきたのよ」雅子は少し口をつぐんでから、続けた。「あの女のせいで、あなたが後継争いから外されるかもしれないと言ったの。一ノ瀬紗月が金を要求したという情報が入ったと、資料を見せてきたわ」「確かめたんですか?」「法務チームに確認するよう言ったわ」「母さんが選んだ法務チーム長が、偽造された委任状に印を押しています」雅子の目が揺れた。「それは知らなかった」「では、何を知っていたんですか?」書斎の時計が1つ鳴っ







